発達障がいってなんだろう?

私は身近にASDの人と一緒に居た時期もあったり、身体に障害を持った家族も居る。

 

特に障害についての勉強を机上でしたことは無かったし

ただ、身近だったから、なんとなく「君これが嫌なんだね」という感じで接していたような気がする。

 

発達障がいって一言で言っても多岐にわたる。

症状の一覧を見ても、〇〇に障がいがあるという風に記載されているが

私にとっては何の参考にもならなかった。

 

「〇〇君は〇〇症だから〇〇出来ないの」と職場の人に言われても、ピンとこなかった。

 

じゃあ、例えば

コミュニケーションに障がいがあるとされるA君は遥かに、私よりもコミュニケーション能力があるなと感じてしまったりする。

 

これは、私の主観だから世間的には違うのかもしれないけどそりゃ、政治討論番組に出れるレベルで言語能力を求めるのであればそれは、一般人でも相当のトレーニングが必要だけど、生活上話す言葉ってそんな難しくない。

 

言葉を話せない人も多く居たし、そこまで我慢強くない子も居たかもしれないけど。

 

一応、教科書上の話で言えば「障がい」と記載されているものだ。

 

学術的な名称を付けると言う意味では、現在使われている用語が浸透しているのでそれはそれで覚えておこうと思うのだけども、記載されている内容が全てかというとそうでもなかったりする。

 

私は子ども達と一通り人間関係を結んだ数週間後にアセスメントシートなるものを一人ずつ読んでみたら様々な呼称がされている症状名が書かれていた。

 

なんか、感覚的に個人名で「〇〇君」と心の中にあるので、その状態で症状名を読んでみると

「え、〇〇君って〇〇症だったんだ。」

「そういえば〇〇ちゃんって〇〇症だって聞いたな」と気づく。

私にはそんな感覚であった。

 

障がい名で本人とリンクしないことが多々あったりした。

周りに居る諸先輩方の会話でも「あぁ、〇〇症だからなぁ」という会話も耳に着くのだが障がい名=その行動をするという印象が沸かない。

 

めちゃくちゃ大人しいADHD判定の子が居たりするものだ、つい最近ADDという名称で多動が伴わない例も聞いた事があるのだが、私の頭の中ではやはり、障がい名での紐づけというよりも「〇〇君、〇〇ちゃん」という本人のパーソナリティに元ずく印象の方が遥かに深い。

 

性別、年代などで大まかな人間像を膨らます事はよくあるのだけど

人類は現時点で70億人以上いるらしく

 

つまり、全ての個体が別人格で同じものが無いので初見から印象が外れる事は日常茶飯事だ。

 

でも、教科書や研修会等の参加は私にとっては、勉強をしに行くと言うよりも一番理解を深めるのは参加者の成功事例を聞く事が一つの私の楽しみだったり、仲良くなった人の施設を見学するのとかそういう取り組みを見て聞いたりするのが私にとっては一番、心にストンと落ちたりする。